『エストフォルド・サガ』の時代におけるノルウェー、デンマーク、スウェーデンの王達についての解説です。

オーラヴ・トリュグヴァソン Olav Tryggvason

ノルウェー王、在位 995~1000年。
968年生まれ。父はノルウェー東部ヴィーケン地方の王トリュグヴィ、母は豪族エリク・ビューザスカラの娘アストリーズ。ノルウェーを最初に統一したといわれるユングリング家出身のハラルド美髪王の曾孫にあたる。
母の胎内にいた頃、父のトリュグヴィ王が従兄弟のハラルド灰色マント王(エリク血斧王とデンマーク王女グンヒルド妃の息子)に殺害され、母が少数の家臣とともに親戚のもとへ向かう途中で生まれた。
その後、4歳までスウェーデンのエリク常勝王の温情にてスウェーデン国内で過ごすが、ハラルド灰色マント王と王母グンヒルドの追手から逃れるため、ロシアのホルムガルド(ノヴゴロド)で大公の高官を務めるアストリーズの兄シグルズを頼り、ロシアへ向かう。が、バルト海を渡る船がエストニアの海賊に襲われ、養父のソーロールヴを殺され、母と別々に奴隷として売られてしまう(後に再会する)。
エストニアの鍛冶職人レーアスに引き取られたオーラヴは、9歳になった頃、レーアスに連れられて訪れた集税所で偶然、伯父のシグルズと出会う。オーラヴの話から、彼がトリュグヴィ王と自分の妹アストリーズの子であることを知り、シグルズはレーアスに養育費等を支払い、オーラヴをホルムガルドへ連れて行く。
3年後の980年、12歳のオーラヴはシグルズについて行った市場で、自分と母を離れ離れにし、奴隷に売ったエストニアの海賊クレルコンの姿を見かけ、手斧で殺害。復讐を果たす。大公妃アルロギア(オルガ)の機知により保護されたオーラヴは、ヴァルデマール(ウラジーミル)大公の軍隊で勇猛な戦士として成長し、18歳までそこに留まった。
その後、彼はヴァイキングの首領として名を馳せ、ヴェンドランド(ポーランド)の王ブリスラヴの娘ゲイラと結婚。しかし幸福な結婚生活は3年ほどで、ゲイラは病没。オーラヴは再びヴァイキング遠征に出て、991年にはイングランドを恐怖の淵に陥れたマルドンの戦いで勝利、多額のデーン税を得る。
994年には、デンマークのスヴェン双髭王とともに再度イングランドを襲撃。イングランド滞在中にオーラヴはキリスト教徒になり、アイルランドの王女ギューダと再婚したが、995年、ノルウェー王位を奪還するため故国に戻る。
南部ヴィーケン地方を中心に、ユングリング家の正統な血を享けた彼を人々は王として認める。彼らは、これまでこの地方を支配していたデンマーク王より、ノルウェー人の若い王に従うことを選んだのである。
オーラヴは徐々にその勢力を拡大。その手段として彼が用いたのは、キリスト教への改宗であった。彼はそれまでノルウェーの実質的な支配者であったラーデのホーコン侯(ヤール)を倒し、ついにノルウェー王として君臨する。外出していたお蔭で難を逃れたホーコン侯の嫡男エリク侯は、スウェーデンに亡命した。
オーラヴはノルウェー全土をキリスト教化することで統一を図るが、彼のやり方は時に強引で性急でもあったので、キリスト教への改宗を拒み、王の弾圧を逃れた者達が、スウェーデンに亡命後バルト海でヴァイキングに乗り出したエリク侯の下に集まり、叛旗を翻そうと密かに画策していた。
ノルウェー南部を取り返したいデンマークのスヴェン双髭王は、妹のティーレ王女をヴェンドランドのブリスラヴ王に嫁がせようとしたが、姫が異教徒の年寄りと結婚するのは嫌だと言ってノルウェーに逃亡。一方、スウェーデンとの同盟を欲するオーラヴ王は、エリク常勝王の未亡人シグリーズ女王との結婚を考えたが、女王はキリスト教徒になることを拒み、キリストを侮辱したので、王は手袋で彼女の頬を打ち、破談となってしまう。
オーラヴ王はデンマークから逃れてきたティーレ王女と結婚、二人の間に男の子が生まれ、ハラルドと名付けられるが、わずか1歳で死去。
正室に先立たれたスヴェン王は、オーラヴ王に深い怨恨を抱くシグリーズ女王と再婚する。そこにノルウェーから亡命中のエリク侯が加わり、三者軍事同盟が出来上がった。
同盟への対抗策として、オーラヴ王はスウェーデン王家と対立するスウェーデン国内の有力貴族、西イェートランドのログンヴァルド侯のもとへ姉のインギビョルグを嫁がせる。
1000年の秋、双方はスヴォルド沖(場所は不明)の海戦で衝突。どっちつかずのヨムスヴァイキング(ヴェンドランド近辺に拠点を置くヴァイキングの戦士団)の裏切りもあり、三者軍事同盟の勝利に終わる。海中に身を投げたオーラヴ王の遺体は、ついに見つからなかった。
その領土内において容姿端麗、勇敢で、誰よりも大きく秀でているとされたオーラヴ・トリュグヴァソン王の波瀾に満ちた生涯は、わずか32年であった。


スヴェン・ハラルドソン(双髭王) Sven Haraldsson (Tveskæg)

デンマーク王、在位 987~1014年。
父はハラルド・ゴルムソン(青歯王)。最初の妃グンヒルド(ヴェンドランド王ブリスラヴの娘)との間に、長男ハラルド、次男クヌート(後のクヌート大王)、娘のギダ、エストリズらがいる。
キリスト教徒の実父ハラルドとは折り合いが悪く、987年頃にハラルド王と争い、父を追放した。その戦で受けた傷がもとでハラルド王は死去、スヴェンがデンマーク王位を継承。父王の存命中からスウェーデンのエリク常勝王との戦を繰り返していたスヴェンは、イングランドへも度々ヴァイキング遠征を行なった。
994年、ノルウェー王となる前のオーラヴ・トリュグヴァソンとともに行なった襲撃は有名で、時のイングランド王エセルレッド二世を震え上がらせ、多額のデーン税を支払わせた。
しかし一年後、オーラヴがノルウェーの王位に就き、ノルウェー南部を奪い返されてから、双方の関係は悪化。ノルウェーに拘り続けるスヴェンは、998年頃、オーラヴ王に斃されたラーデのホーコン侯の嫡男エリク侯と娘のギダ姫との結婚を承諾。自身は、オーラヴ王に深い恨みを抱くスウェーデン女王シグリーズと再婚した。
1000年のスヴォルド沖の海戦に勝利したスヴェンは、イングランド王エセルレッド二世による1002年11月3日のデーン人虐殺事件に怒り、再度イングランドを攻撃、エセルレッド王を攻略。殺害されたデーン人の中にスヴェン王の姉妹の一人が含まれていたからである。エセルレッド王はフランスに逃れ、その後1013年まで、イングランドはスヴェン王とその配下のデーン人ヴァイキングに蹂躙された。
しかし、智略と策謀に優れ、有能な王と謳われたデンマークとイングランドの王スヴェンは、1014年2月3日の夜、謎の死を遂げる。デンマークは長男ハラルド、イングランドは弱冠18歳の次男クヌートが受け継いだ。


オーロフ・エリクソン(シェトコーヌング) Olof Eriksson (Skötkonung)

スウェーデン王、在位 995~1022年。
父はエリク常勝王、母はスコグル・トスティの娘シグリーズ。妃は北西スラヴ、オボドリートの王女でキリスト教徒のエストリド。妃との間に息子アーヌンド・ヤコブと娘インギゲルドが生まれた。他にヴェンドランドの首長の娘エドゥラを妾に迎え、庶子が数人いたらしい。娘のインギゲルドはキエフ・ノヴゴロドのヤロスラフ公と結婚。
オーロフは若くして王位に就いたので、母であるシグリーズ女王としばらく共同統治の形をとっていた。彼がスウェーデン(当時の領土はスヴェアランド地域とその周辺で、ウプランド、セーデルマンランド、ヴェストマンランド、ネルケ、東西イェートランドあたり。スコーネ、ブレーキンゲ等の南部はデンマーク領だった)を単独で統治するようになったのは、シグリーズ女王がデンマークのスヴェン双髭王と再婚してからと思われる。
スウェーデンの古い都はウプサラにあったが、エリク常勝王の時代に町の基礎ができたシグテューナを、オーロフ王は新しい都とした。キリスト教徒になった王は、シグテューナに教会を建て、イングランドから造幣職人を招いてラテン語による自分の名と肖像を刻んだスウェーデン最古の貨幣を造らせた。
1000年のスヴォルド沖の海戦後のオーロフ王については詳しく判っていないが、晩年は西イェートランドで過ごすことが多く、スカーラにスウェーデンで最初の司教座を設立した。1022年に死去、嫡男のアーヌンド・ヤコブが王位を継承した。


【追記】
オーラヴ・トリュグヴァソン王とスヴェン双髭王は、義兄弟にして生涯の好敵手でした。オーラヴ王の妃(三度目の結婚相手)ティーレはスヴェン王の妹ですが、オーラヴ王の最初の妻ゲイラとスヴェン王の妃グンヒルドは姉妹だったので、二人の王は二重に義兄弟だったのです。
彼らの次の世代では、スヴェン王の次男クヌートの話が面白いです。弱冠18歳でイングランドを託された彼は、まだ若年であったゆえに父王に服従していたイングランド貴族達の叛乱に遭います。一度デンマークに帰国し、デンマーク王位を継いでいた兄ハラルドと協議の結果、ノルウェーのエリク侯に援軍を依頼することを決めます。彼らの姉妹であるギダの夫であるエリクは、戦士としても有能で、その勇猛さは群を抜いていました。また、ヨムスヴァイキングの首領シグヴァルディの弟「のっぽのトルケル」の支援も得て、クヌートは再びイングランドへ乗り込み、軟弱な父エセルレッド二世とは正反対のエドマンド豪勇王と対峙。20歳のクヌートと22歳のエドマンドの戦いは引き分けに終わり、二人はイングランドを分割統治することで合意しますが、エドマンド王の突然の死により、クヌートが唯一のイングランド王になりました。彼はイングランドに逗留するデーン人の軍団を減らしたことで、イングランド人達の支持をも得たといわれています。
その後、1019年に兄のハラルドが嫡子を残さず他界したため、デンマーク王位をも継承。キリスト教徒のクヌートは、エセルレッド王の寡婦エマと結婚。1028年にはノルウェー王と豪族との争いを利用し、ノルウェー王位をも得て、スウェーデンの一部を含める北海の覇者となり、のちの世に「クヌート大王」の名を残しました。「クヌートリンガ・サガ」によると、王は長身で容姿端麗、勇猛な戦士であったそうです。



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